ベートーベン運命の出だしの振り方に誤解があるように思う

昨日のNHKクラシック音楽館では、「ベートーベンの交響曲5番運命の最初の『ジャジャジャジャーン』の出だしの音を合わせるのが難しい。いきなり振り下ろされる指揮棒に失敗無く合わせようとする緊張感で指揮者も楽団員も大変だが、その緊張感が運命の演奏を良いものにする」、みたいなことを言っていた。

 

この言い方は子供のころからテレビで何度も聞いている。

しかし、西洋の指揮者はそんなことを言っているのだろうか?

日本だけで言われていることではないのか?、と思うのだ。

 

なぜなら、テレビで放送されたりDVDで演奏が見れるような西洋の著名な指揮者は運命の第1小節の頭を前振り無しでは振っていないから。

 

ある指揮者は1小節2分音符を1拍として3拍もの前振りを入れている。

日本人の指揮者でも、最初の一振りをするために腕を上に持ち上げるその動作を1拍の前振りに使っている。最近見たのはコバケンだ。

 

昨日の番組ではパーヴォ・ヤルヴィが前振り無しで曲をスタートさせている場面が何度か映し出されたのだが、実はそう見えるように意図的にカットされていたことが後半に分かるのだ。

 

番組後半の第1楽章を丸々流す場面は、パーヴォが舞台に出て来るところから映像が始まったので、1拍目を振り下ろすための前動作として腕を持ち上げる動作もカットされることなく写し出された。

その動作が前振りの1拍分として使われていることがハッキリと見えたのだ。

当然ながら、出だしの音は何の問題も無く全くきれいに揃って鳴った。

 

「前振り無しで振ると特別な緊張感が出るのが良い」と日本の一部の指揮者や解説者などが言うのは、「夏にスポーツをしていてノドが乾いても水を飲んではいけない」とか、先日のブログに書いた「インベンションで8分音符が数個並んでいたらそれらは全く均一に弾かなければバッハではない」とかの考えと根っこが同じのように見える。要するに非合理的なのである。

 

日本に昔からある「精神論」や「道(ドウ)」のようなものが音楽の世界にも顔を出しているのではないかと思うのだ。

まあ、やりたければやれば良いのではというものではあるのだが、しかしそれを続けることで進歩したり発展したりすることはないと思うのだ。

いかにも日本的ではあるのだが、それで良いのか?と思う。

 

蛇足だが、運命以外の曲でも、西洋の大指揮者は前振り1拍ではなく、2拍や3拍の前振りをする場合を良く見かける。しかし、大っぴらに3拍振るとカッコ良くないと思うのだろう、最初の2拍は観客から見え難いように体の前で小さく振っている。

 

普通の曲を指揮するときに、前振りは1拍、と頑なに決めているのはこれまた日本人だけではないのか、と思ったりするのだ。

もしかすると、3拍振るとアマチュアっぽく見えるから、というのが理由かもしれない。

 

しかし、1拍だった前振りを3拍にすることで指揮者が考えている演奏速度が楽団員に確実により正確に伝わるはずであるから、曲の最初からきっちり揃った良い演奏をするためには、曲ごとに必要な数の前振りをするべきはないのか、と思う。