テレビで毎週のように放送しているN響コンサートを見ているが、ほぼ例外なく毎回感動しなくて欲求不満になる。
感動しない主な理由は、演奏に表情が付いていないから。
録音のダイナミックスの幅が狭いのでリアリティーに欠けることも感動の有無に関わっているとは思うが、演奏さえ良ければ録音が相当悪くても感動するので、感動しないのは1にも2にも演奏のせいだと思う。
本当に、どうしてN響は昔からこうなんだろうとつくづく思う。
そんな伝統、捨ててしまえば良いのに、と思う。
そんなN響の演奏と対照的なのが、ベルリンフィルやウイーンフィルを振ったカラヤンの演奏だ。
久しぶりにCDを聴いて、これが音楽だよー!、と思ってしまった。
芸術とは創造である。
音楽において作曲は創造であり、演奏は再創造である。
再が付いても、演奏は創造する行為である。
話が少し違うが、絵画で超細密画というのがある。
写真と見分けがつかないほど同じように描くのだそうだ。
でも、それだけだとすると、それは芸術ではない。
写真と同じように描けるという技術でしかないのだ。
「絵なのに写真と見分けがつかないね、すごいね!」と感心はされても、だったらわざわざ描かなくても写真を飾っておけば?と思われるだろう。
創造的なものが入っていない技術は芸術にはならないのだ。
カラヤンの演奏は、曲の最初から最後までどのように表情を付けようか山谷を付けようか、最後のクライマックスを最も効果的にするためにここはこう演奏して・・・など、全てを考え抜いた末に演奏しており、全体が極めて有機的でうねりまくって最後まで聴き手の耳と心を捉え続ける。
意味なく何となく流して演奏しているような箇所は一か所も無いのだ。
そんな演奏を可能にしているのは、カラヤンとオケ各奏者の高い音楽性だろう。
曲の構成にかかわるところだけではなく、個々のメロディーの歌い方がこれまた素晴らしいのだ。こんなに味のある歌い方を私には絶対に出来ないしアイデアとして思い付くことさえ出来ないだろうと思う。それほど次元が違う。
つくづく、彼らは真の芸術家なのだなーと思う。
N響のように縦も横も合ってます!というだけでは芸術にはならない。
芸術はそのもう2つも3つも先に有ると思う。
N響には、是非そんな演奏が出来るオーケストラになって欲しいと思う。
そうなった暁には、NHKが企画してヨーロッパに演奏旅行へ出かけている現在とは正反対に、あちらから是非来てくれと招請されて行くようになるだろう。
ときどき図書館へ行くが、いつも目にとまってしまう本がある。
「カラヤンがクラシックを殺した」という本である。
あほらしいので借りたことはないが、目に付く。
おそらく、カラヤンは演出が多くて嫌い、と書いてあるのではと思うが。
確かに、演出過剰と思う演奏も有るには有る。
でも、単に楽譜に書いてある音符のままだけで表情無しで演奏して音楽になりますか?と聞いてみたい。
作曲家は、楽譜にごく僅かなルバートやクレッシェンドなどは書き込んでいないのだから、楽譜を見てそれを感じられない人が演奏すると、無味乾燥の感動のない演奏になってしまう。
N響のメンバーには、カラヤンのCDを聴いて、自分たちとの違いの大きさを是非感じとって欲しい。
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